ライター。著書『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(平凡社)ほか。週に2回、映画館とサウナへ行きます。映画評、書評、美容記事、ジェンダー論が好きです。いまは中年男性が友だちをつくる方法を考えています。
X「男らしさ」「女らしさ」が今より色濃く蔓延る時代を過ごした若年期
「男らしさ」は良くないものかも?と疑問が湧き、少しずつその有害性を研究し始める。
「男らしさ」の有害性を考えた末、「友達作り」がそれを緩和するのではと提唱し始める。
引き続きジェンダーラベルについて考えながら、今に至る。
伊藤さんが20・30代の頃は、世間の風潮自体が『男らしく』『女らしく』を推奨しているような、ジェンダーへのラベリングが強かった時代。そんな当時の『男らしさ』=『マッチョ』についてのお話を伺いました。
小学生の頃のエピソードですごく覚えてるものとして、雨が降っていた日に親が長靴を出してきて、『今日はこれを履いていきなさい』と言ったんです。その長靴はおばあちゃんが履いてた長靴で、白くて、昔の魔法瓶のような花の絵が描いてありました。何の疑いもなくそれを履いて学校に行ったら、同級生にいじられたんです。クラスの男子から見るとその長靴は『女の子みたいになっている、ダメなもの』という認識だったんです。その”男の子内のルール”が私はわかってなかったんですね。
子供でさえそうやって言ってくるのは今も昔も変わらないですね。
そうですね。あと、20代の頃が90年代なんですが、90年代は石原慎太郎さんや松本人志さんなどのいわゆる男性性の強い人、男らしくマッチョな人が一世を風靡していて、時代の流れもマッチョ全盛期でしたね。表現の性としては、小学校の時はあんまりよくわかってなかった状態で、10代頃からマッチョにならなきゃいけないと思って、20代はなりきれないながらも頑張ってマッチョになろう、まだマッチョになれるんじゃないかとすごい頑張っていて、そして30代で『でもマッチョになれないぞ。』と思い、40代からマッチョは無理だと感じ、今に至るという感じです。
90年代は、『恋愛をしてないやつはおかしいんだ』というような考えもあったんですよ。今は別に恋愛をしないとしても、そんなに気にしないというか『まあまあ、別にそうだよね。楽しいことって色々あるしね』と思えるんですけど、90年代では”恋愛をしていない”ということは、どこかに異変がある。つまり人間としてもうどこかがおかしくなっているとしか思えないというぐらいに『おかしいんじゃないの?』と人として欠格になるんじゃないかぐらいのことだったんです。
だから、そういう中で”恋愛ができない”、”男らしくない”というのは、すごく良くなかったし、そうあるべきというプレッシャーがあったんです。もう思い出すだけでも嫌な言葉なんだけど、当時は、経験がないまま20歳になってしまうことを『やらずの20歳(はたち)』、略して『やらはた』と言っていたんです。
自分は初めて女性とお付き合いをした時が19歳で、『これでやらはたって言われなくて済む』と思っちゃったんです。女性からしたら、やらはたと言われたくないから私と付き合ったの?という話になってしまうし、そんな失礼な話はないわけであって、本当にそういう風潮も良くなかった。そういう世の中からのプレッシャーのようなものがあって、マッチョになりたくないのに、マッチョにならないと会社でも尊敬されないという流れもありましたし、だからこそマッチョじゃないと外に出ても評価されないと思っていました。
マッチョにならないということを自分で選択できればよかったんですが、『いつかマッチョになるぞ』、ということをつい思ってしまって、男らしくない私というものをなかなか自分では選べなくて、それはすごく辛かったなとは思いますね。だから、そういうことやそんなことで悩まなくてもいいような社会になってほしいと思っています。私はやっぱりそれで、すごい時間を無駄にしちゃったわけですよね。
私も仕事で頑張りたい、出世したいと強く思ってた時があったのですが、その時は全員が敵だと思っていて、マッチョさが少なからずあったなと思うんです。伊藤さんのマンボックス(※社会が男性に対して押し付ける『男らしさ』の固定観念(タフであるべき、弱音を吐かない、支配的など)を箱に例えた社会学の言葉 伊藤さんの記事はこちら)の記事を読んでいて、パワーが必要だと計らずもマッチョになってしまうこともあるような気がしています。
マッチョって、かっこいい、決断力があるというように判断しやすいんだろうなと思うんです。だからマッチョさに惑わされて、マッチョがいいというようにどんどんなっていくんだろうなと思います。すると、本当はみんなマッチョさに苦労していて、さっさとやめて仲良くすればいいのに、それをやろうとすると、派手さがないというか、穏やかに生きることのの利点もあるはずなのですが、伝わりづらくなってしまう。そういうジレンマがあって男性性の手放しができないのではないかと今強く思っています。
伊藤さんが30代ぐらいまでマッチョになれるはずと諦めきれなかったのは、やはりマッチョはイケてるものであり、いろんなもの持っていると思っていたので、憧れたという感じですか?
完全にそうですね。だから逆に言うと、マッチョじゃなければ、周囲からの尊敬も得られない、恋人も得られない、お金も儲からない。マッチョさがないということは、どんな人生の楽しいことも何もない、面白いことが1個もなくなってしまうんじゃないかという感覚でした。地味な人生になるのは、自分は男らしくないからだというように思っていました。
例えば親御さんから『良い大学入って、こうするのよ』と言われてたなどではなく、社会としてそういう風潮だったということですか?
親がマッチョさを押しつけるような性格だったわけではありませんでした。でも、私が中高生だった80年代は、やはり時代全体がかなりマッチョな雰囲気だったと思います。学校でも体罰が普通にありましたし、男子校に入った場合、学校の中にまた独特のマッチョな空気がはびこっていて、ひ弱な性格の男性は排除されてしまう。そうした雰囲気は、あまり良いものではなかったですね。
男らしさを追求したり、試行錯誤する中で年齢や時代の変化からマッチョへの疑問が湧いてきます。『男らしさ』から解放された伊藤さんはどのようにして『マッチョ降り』をしたのでしょうか?
一人称という問題がありまして、女性の場合は基本的に、一生『私』で通せるじゃないですか。私は『俺』というのがものすごく恥ずかしくて、やだな、と思っていました。『俺』というキャラじゃないのに『俺』と言わないと女性に好かれないのかな、と思って『俺』と言っていました。
その後30代ぐらいになってから『僕』を経由して、もうありとあらゆる場面で一人称は『私』にしようと決めて、そうしたらすごくしっくりきました。でも『私はね、』と話すと、周りの人、特に甥っ子や姪っ子などの子どもでさえ、『私って言ってるー!』とすごいウケたりするんです。その時は『そうだよ。私は私のこと”私”って言うんだよ』といいます。それでまた『ウケるー』とか言われるのですが。
あのちゃんなど女性の芸能人の方でも『ぼく』という一人称を使っていますよね。それを見た時に『わかる!』と思ったんです。なんとなく『ぼく』と言っているわけじゃなくて、多分あのちゃんの中には、『ぼく』にたどり着くまでの一人称ジプシー(漂流)があって、様々なところをさまよって『これも違う』『あれも違う』というようにして最終的に『ぼく』になったということがすごくわかるんです。
確かに一人称の話は別の男性の方も話していました。(兵藤海さんインタビュー)そんな中、”マッチョ”は違うかも?と思った1番のきっかけはありますか?
振り返ると、やはり30代後半から40代くらいになったことが大きかったと思います。『ここまでやって男らしくなれないなら、もう無理だろう』と思ったんです。それに加えて、自分が40代になる頃には、世の中の風潮がはっきり変わってきたと感じました。ジェンダーに関する本を読んだりして、『男らしいことにも良くない部分があるのか』と思うようになって、そこで、『男らしさにうまく乗れなかった自分は、間違っていなかったのかもしれない』と感じるようになったんです。そこから、かなり変化が出てきたと思います。それは自分にとって、とても良い変化でした。世の中が、『男らしいって、そんなにいいことばかりじゃない』と言ってくれるようになった。それまでは、『男らしくないのはどうしよう』と思っていたのに、急に後ろから援軍が来たような感じで、『やっぱりそうだよね』と言ってもらえた気がしました。そこで、『よかった』と思えたのは、すごく嬉しかった。やはり世の中が変わったことは大きいです。
あともう一つ大きかったのは、『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(平凡社)という本を作ったことです。その本を編集してくれた出版社の編集者の方が『フェミニズムの本を作りたい』と思って出版社に入ったというくらいの女性でした。そういう本を読むだけでも影響は受けますが、フェミニズムを世の中に広めるんだという強い思いを持って出版の仕事をしている人と実際に会い、コミュニケーションを取ると、影響の受け方が違いますね。その人と仲良くなっていく中で、強く影響を受け、そこからさらに一段深まった感覚があります。実際に会って話をすることは、本当に重要だと感じました。
それは伊藤さんが掲げている、友達作りと関係していたりするんでしょうか?
友達作りとも関係している話なんですが、そもそも友達って何なんだろう、と考えるようになりました。特に男性の場合、どうなんだろう、と。最初はずっと、『男らしい』ということのよくなさについて考えていました。男らしさが、いろいろな形で女性に迷惑をかけてしまうことがある。セクハラもそうだし、性加害したりすることもあります。
女性蔑視をする人も、『嫌いだからもう関わらない』と言って、山奥で誰とも縁のない人生を送っているなら、まだいいじゃないですか。でも実際はそうではない。女性が嫌いだと言いながら、毎日のように何かしら嫌がらせを欠かさない。そこが本当にまずい。なぜなんだろう、と考えるようになりました。いろいろ考えていくうちに、そもそも『友達がいない』ということが、男性のさまざまな問題の根っこにあるのではないか、と思うようになったんです。人付き合いそのものを軽視しているところがあるのではないか、と。だから、男性がきちんと友達を作るようになれば、精神的にも落ち着くし、自分を客観視できるようになって、世の中はもっと良くなるんじゃないか。そんなふうに思って、今は『友達を作ってほしい』という話をしています。
男性は友達を作る、ということに対して、すごく消極的な人が多い印象です。特に男性は自分から連絡を入れたくない人が多いですね。確かに迷惑に思っていたらどうしよう、などと考えてしまいますが、でもそれを面倒くさいとしてしまうと、その後1人ぼっちになってしまうし、人とコミュニケーションを取っていないと、不幸になるし、精神的にも良くないと思うんですよね。多分すごく良くないことがいっぱい起こると思うので、そうならないように日頃から人とコミュニケーションを取り、人に悩みを言うというのが必要だと思っています。
たとえば『気持ちが塞ぎ込んでしまっていて』と打ち明けたときに、『そういうことあるよね、わかるよ』と受け止めてくれる人がいないと、やはりつらいんです。男性は励まし方が下手だと言われますが、下手というより、ポイントがずれていることが多い。マッサージのように確認しながら『そこそこそこ!』という、寄り添うような関わり方が必要なのに、そこがうまくいかない。悩んでいるときに、『わかる、わかる』と共感しながら、『それは君の責任じゃないよ』と、うまく言葉を選んで相手の心を軽くしてくれる。そういう関わり方ができる人は、相手の心を楽にするのが上手です。男性は、その部分があまり得意ではない人が多いと感じます。もちろん上手な人もいますが、相手の心をどうやって楽にするか、その感覚を持っている人は多くはない、という印象がありますね。