1990年、長野県生まれ。大学卒業後、社会的なメッセージ性のある映画の配給を行う会社で3年間勤める。2018年からフリーになり、映画イベントの企画運営や、記事の執筆などを行う。セクシュアリティは「クエスチョニング」。
クエスチョニングと自覚するようになり、SNSでカミングアウトをしたアーヤさん。公表することで人とのコミュニケーションの仕方に変化があったといいます。
アーヤさんはどのようなタイミングでカミングアウトをしたんですか?
仕事で同性婚に関する映画の配給をする時に、自分がどれだけ本気でその映画を届けたいと思っているかを伝えたくて、SNSやウェブメディアでカミングアウトをしました。
その当時はまだ全然LGBTの言葉自体が認知されてない時代でした。ちょうど渋谷区と世田谷区でパートナーシップ制度が始まったぐらいのタイミングで、オープンにカミングアウトして発信している人もそこまでいなかったんです。私はカミングアウトしても失うものもないし、身近に実は悩んでる人がいるんだよと気づいてほしいという思いもあってカミングアウトしたという感じです。
ただ、LGBTの4つのなかに明確に自分が当てはまるとは言えなかったので、自分が「当事者」と言えるのかは分からなくて、その意味では不安もありました。でも『アウトインジャパン』(※認定NPO法人グッド・エイジング・エールズが主催する、5年間で1万人のLGBTポートレート撮影を目指すカミングアウト・フォト・プロジェクト)というLGBTQ当事者の写真と共にカミングアウトストーリーを伝えるプロジェクトがあって、参加したい気持ちとともに、その悩みを伝えたら、それでも歓迎してくれたんです。うれしかったですし、安心が増しましたね。
公表して周りからの反応は何かありましたか?
実は自分も当事者なんだと打ち明けてくれた友人が少なからずいて、すごくうれしかったですね。一方で、知り合いが初対面の人に私を紹介する時、「彼女はレズビアンなんだよ」といきなり言われたことがありました。そもそもクエスチョニングなので間違っていますし、カミングアウトしているからといって無関係の場で勝手にオープンにしていいわけではないと思うんですよ。
振る舞う性は大人になって何か変化しましたか?
振る舞いや装いって他者とのコミュニケーションだと思うんです。最近気づいたんですけど、私は他者とのコミュニケーションがないのであれば、女性らしさとか男性らしさとか関係ない、ラフでカジュアルな格好で居るのが一番自分らしく感じられる気がします。だけど、仕事で人前に出て話さないといけない機会が最近は多くて。TPOに合わせた「ちゃんとした服」を着ないといけないとなると、自ずといわゆるオフィスレディ的な格好になってしまう。そういう女性らしい装いの選択肢しか今まで見てこなかったから、そういうものを買うセンスしかなくて。でも、そういうフォーマルな女性らしい服が家に増えれば増えるほどものすごく憂鬱な気持ちになるんです。だから、仕事では女性らしい服を着て、家ではその反動のようにカジュアルな格好で最近は過ごしていますね。
最近は性自認もかなりゆらいでますね。なにかきっかけはあったのですか?
これまでの人生でそんなに女性としての意識を持ってなかったんですけど、この2〜3年でちょっと意識が変わったんです。ジェンダー問題に関わる映画とトークを行うイベントの司会をさせてもらったり、男女共同参画社会実現のための活動を長年行っている団体の雑誌で、主にジェンダーに関わる映画紹介の記事を書くようになったんです。その中でジェンダーにまつわる世界各地の多様な歴史を知る機会が多くなり、知れば知るほど女性としてそこに共感する私もいたりして。だから、すごく不思議な感覚です。彼女たちのおかげで今の私はいるとすごく思うし、彼女たちと同じ「女性側」でいたいと思うけど、でも「私は女性である」という意識を強めることにはモヤモヤもするんです
あと、私は子供を産みたくない、いや、産む人生を選びたくない……否定形になるのがすごく嫌なんですが、パートナーはいたらいいなと思うけど、2人の世界のままがいいんです。でも、子供を産みたくないと言った瞬間に、人としての感情がない人間みたいに思われそうで、なかなか言えないですね。
そういった自分の中のモヤモヤだったり、悩みを何か解消するコツはありますか?
1人じゃないという感覚や、受け止めてもらう機会を、小さくても積み重ねていくことが大きい気がしますね。クエスチョニングであることを隠してはいないですが、はじめましての人にいきなり伝えるわけでもないので、今も「カミングアウト」する機会は折に触れてあります。それが受け入れてもらえる経験が積み重なると、大丈夫って思える感覚が増していきます。
また、私の場合は映画を通じて「一人じゃない」を感じさせてもらうことも多いです。たとえば、同性カップルに育てられている子供たちを追った『ゲイビー・ベイビー』という映画があるんですけど、同性同士のカップルでも異性カップルと変わらない家族の日常があることを感じられるし、同性カップル異性カップルかじゃなくて、1つ1つの家族がちがって多様なんだなと感じられます。そういう映画に勇気や安心感をもらうことが多いですね。
家族との向き合い方に関しても自分らしさを見つめなおすヒントがあったと話すアーヤさん。どのような経緯だったのでしょうか。
お母さまとは現在距離を取られているとのことですが、親子だと簡単に割り切れない部分も多いと思います。どういう風に折り合いをつけているのでしょうか?
大学に入学した時に両親が別居したのですが、父親側に原因があったんです。なので最初、私は母側についていたんですけど、母がうつ状態になってしまい、一緒にいると今度は攻撃対象が私になるということが多々あって。私もつられてどんどん鬱になっていきました。喧嘩も増えていって、最後何が原因だったか記憶もないんですけど、大きな喧嘩をして、そこから全く母と連絡をとっていません。
でも、母との距離が離れた時、それまで私は母の顔色をうかがっていろんな選択を決めていたことに気づいたんです。母という基準がなくなったら、自分自身が本当は何をしたいのか全然分からなくなったので。そこから、だんだん自分で選択をする練習をした感じです。また、母はいろいろと厳しくて制限も多かったのですが、それがなくなったことで色々な人と出会い、自分で経験して、自分で判断していきたいと思うようになりました。 そうできる自分を好きでもあるんです。好きな自分でいるために私は母と距離をとってよかったと思いますね。
あとは、母は家族のためにというのを20年くらい続けていた人なので、私やほかの家族が近くにいてしまうとずっとその習慣から離れられないと思うんですよ。なので、母が母自身の人生を歩むためにも私は距離を置いた方がいいと思うんです。お互いに自分の人生をちゃんと歩むために。
それこそ家族が第一であるとか、家族はどんなに大変なことがあっても最後はハッピーエンドになるという映像作品が世の中に溢れていることは、罪なことだと思っています。別に必ずしも家族が居場所である必要はなくて友達を家族として選ぶこともできると思いますし、人である必要もないのかもしれない。多様な「生きやすさ」の選択があることがもっと知られたらいいのになと思います。
たしかに映画やアニメは家族のあり方や友達のあり方の描写が固定化されているものが多いですよね。
Netflixに『Disclosure トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして』というドキュメンタリー映画があるんですが、ハリウッド映画の中でトランスジェンダーの人たちがどう描かれてきたかをトランスジェンダーの方々が振り返って解説していく作品で、その中で男性から女性にトランスする人を狂人のように描いたり、笑いの対象として描く映画が多かったせいで、現実社会でも「危ない人」のように扱われたり、嘲笑されたりしてしまっていると話していました。映画やドラマ、本などもそうかもしれませんが、何度も何度も似た価値観の作品にふれていると、いつの間にか自分のなかにその価値観がインプットされてしまうんじゃないかと思うんです。だから、自分に対する誰かのコミュニケーションのあり方に違和感を覚えた時や、自分自身の中にある価値観に自分が苦しめられている時には、一旦俯瞰して、「それって本当にその人/私の選択なのかな」と考えるといい気がします。
悩むことは決して悪いことではないと話すアーヤさん。社会やメディアとかかわる中でどのように悩み、ゆらいでいけばいいのかお伺いしました。
現代は性別のラベルがまだまだ残ってると思うのですが、その社会に対して思うことや、一個人としてやった方がいいと思うことなどはありますか?
その人がその人らしくいることって、その人自身にとってもそうだけど、それ以上に周りの人にとってもハッピーなことのような気がします。1人の人が自分らしくいると、周りもつられてエンパワーメントされると思うので、そういう人が社会に増えていけばそんなに憎み合ったり競い合ったりするようなことはなくなるのかなと思ったりして。 だから、色々な美しさやかっこよさや自分らしさが当たり前にある社会になったらいいなと思います。最近はそういうものを求めて日本から海外へ出ていってしまう人って結構多い気がするので、 日本の未来のためにも多様な人が心地よく生きられる社会になることが必要なんじゃないかと思います。
多様性っていうと、セクシュアリティや障がいについて取り上げられることが多いですが、もちろんそうしたことを知って考えることも大事な一方で、ここからここまで学んだからOKとはならないですよね。それにダイバーシティって、究極的には、自分の理解できないものや自分にとって反対で受け入れがたいものとも共存することなんじゃないかと思うんです。それって果てしなくどこまでもあり続けると思うんですよ。終わりやゴールがあるわけじゃない。
たしかにそれは大事だし、その考え方はダイバーシティを考えるにあたって意外と盲点ですよね。
そうですね。私がノンセクシュアルというセクシュアリティを知って安心したように、ラベリングすることによって、感覚や存在が認められて安心感を覚える、という面もある一方で、自分をその枠に当てはめて結論を出すことが、必ずしもハッピーではないかもしれないなと最近考えています。
この間、同性のパートナーがいる女性の方のインタビューを読んでいたら、カミングアウトしたときは「レズビアンとして」だったけれども、だんだん自分が女性なのかも分からなくなってきたというような話をしていたんです。でも周りに「レズビアン」というラベルで記憶されてしまっていると、そのギャップがつらくなりますよね。
自分自身も相手も、どうゆらぐかは分からないわけだし、ゆらぐ可能性をお互いに受け止めあえていたほうが、生きやすいんじゃないのかなと私は思います。
最後に性のゆらぎで悩んでいる人に対してメッセージをお願いします。
誰しもが気づいていないだけで何かしらゆらぎをもっていると思いますし、悩んだ経験によって強さや優しさが磨かれてその人が輝くこともあるので、悩むこと自体が必ずしも悪いことではないと思っています。もちろん、セクシャリティのゆらぎが理由でいじめられたとか外側からの攻撃に対する悩みは問題だと思いますが、自分で自分自身のことに関して悩むことは、上手な悩み方さえ体得できれば別に悪いことではないし、時々悩んで自分と向き合う方がいいんじゃないかとも思います。私も現在進行形でゆらいでいますが、このままゆらいでいてもいいと思っています。ゆらいで、悩んで、考えて、気づいて、またゆらいで……そのプロセスにきっと、自分らしさが宿るような気がするので。ゆらぐ自分も自分として愛おしんでいけたらいいなと思っています。